今日の午後,市研修所主催の研修講座に参加してきました。
今回は,受講する側です。

受講することにやや疑問を感じつつも,市内の国語担当者会に動員がかかり,ある意味仕方なく参加しました。講師は,某教育大学の国語教育研究者の先生です。

研究者ですから,学校教育の実践や指導要領の内容については,それなりの研究があります。それはそれで,尊重すべきです。しかし,授業実践そのものにどれだけ語ることができるかというと,実は,新任の先生や若手の先生よりできないのが実際なのです。

なぜなら,研究者の先生は,子どもたちを前に授業したことがないからです。子どもたちを前に,1年あるいは数ヶ月も,一緒に過ごしたことがないからです。

ですから,一般的な話,あるいは特殊な実践例の話しかできません。

しかし,このような話を聞いても,新任や若手の先生は,明日からどのように授業をすればいいか分かりません。つまり,実践的ではないのです。

研究者の先生は,さまざまな実践やこれまでの文献などから,論を形成されます。それはそれで,そのような文化的領域では価値あることです。一方,教師というのは実践現場にいるわけで,実践に役立つかどうかということが重要になります。

つまり,研究者と実践家は,それぞれの立場があり,それぞれ異なった文化的,社会的な状況にいるということです。

しかし,このような研修会では,研究者の意見をありがたかる傾向が,実践現場にはあります。つまり,えらい先生だから,その話も有意であると考えるのです。

この考え方は,安直です。もっと,実践家は,自らの実践に自負をもつべきだと思います。

例えば,陶芸家を考えてみてください。陶芸家は,ある意味陶器をつくり実践家です。その陶芸作品を評論する研究者は,陶器をつくることはできません。陶芸家が人間国宝になることはあっても,その評論家や研究者がそうなることはないのです。

それと同様に,日本の教育史をひも解いても,実践家の名前しか残っていません。

このことを行政や教育関係者は,真摯に考えるべきです。そして,実践家である教師は,もっともっと,自らの実践に誇りをもつべきです。

そして,教育実践についての研究や研修は,実践家である教師たちの実践知を蓄えていくようなものでなければならないと思います。


 

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