今回のブログは,以前書いたものの続きです。

子どもが主体的に学ぶとは −序−

 これだけ大きな教育理念の改訂が行われたのには,その背景として教育に関する社会からの興味や関心があったことが考えらます。実際,当時の教育界には様々な問題があり,それを解決しようとする社会的・政治的な動きがありました。それが,1984年8月21に発足する,首相の直属諮問機関である臨時教育審議会です。この審議会では,教育における様々な問題や諸課題について審議し,3回の答申を出しています。

 また,この臨教審は,文部省内の審議会とは異なり,開かれた会を目指していました。それは,委員の合意ができた問題について逐次答申したことや,ヒアリングなど広く様々な声を聞こうとしたことからも明らかです。これは,世論を巻き込みながら,教育改革について議論を進めようとしていたと言えます。このことは,教育改革が社会的な関心となっていたことを示しています。この臨時教育審議会の最終答申を受けて,教育課程審議会や中央教育審議会などの審議を経て,学習指導要領が改訂されています。したがって,この臨時教育審議会について分析することは,「新学力観」が生成される社会的,政治的な状況を分析することになります。

 ところが,このような社会的な状況があるにもかかわらず,「新学力観」以前に,子どもの主体性や主体としての子どもを実践研究の対象としていた研究や理論があります。それは,大西忠治の学級集団や学習集団の理論,吉本均の学習主体や村上芳夫の主体的学習などです。

 大西忠治は,学級集団を子どもの自主的・自治的集団へと変容させていこうとしていました。また,吉本均は,学級集団とは別の学習集団を設定し,その中で子どもたちを学習の主体者として位置づけ,自主的・自律的な学習を目指していました。また,村上芳夫は,主体性をもつ人間形成に重点を置き,学習における主体性の確立を目指す授業を展開しようとしていました。

 これらは,「新学力観」が指導要録とともに展開しようとしている「主体的」や「関心・意欲・態度」の育成とは異なった技術を用いています。これらを批判的に分析することで,彼らの目指していた「主体性」や「主体」を問題化することができます。そして,この問題化と同様の手法で,「新学力観」の「主体的」や「関心・意欲・態度」について分析することができるのです。

 ところで,「新学力観」が目指す「主体的」な学習や「関心・意欲・態度」への注視は,それまで政治的,あるいは政策としてなかったものです。それまでは,「知識・理解」や「技能・表現」,「思考・判断」が学習における内容であり評価の対象でした。つまり,それらが学習を通して学ぶことであり,「関心・意欲・態度」はもちろん重視しますが,それが具体的な学習内容や,評価の対象にはならなかったのです。このことは,「新学力観」以前の様々な学力論の中にも見て取ることができます。

 例えば,勝田守一は,「認識の能力」を「学力の中心」と見ています。その中身から「態度」を排し,まずはペーパー・テスト等で計測可能なものに限定して「学力」をとらえようとしました。つまり,「関心・意欲・態度」を学力と見なすことは,態度主義として批判されたのです。

 にもかかわらず,「新学力観」では,「主体的」や「関心・意欲・態度」を学習内容とし,評価の対象とします。このことは,学習者の主体としての姿を変容させることを意味しています。そして,その変容に,評価という道具を用いるのです。この道具は,成績や進学をその目的におくとき,絶大な効果を発します。そして,その効果は,学習者である子どもや生徒を従順さへと導くのです。

 このように見てくると,「新学力観」が目指すものが,フーコーの言う「従順な身体」を形成すること,あるいはそれを強化することと重なってくるように見えます。

 フーコーは,規律・訓練の権力装置によって「従順な身体」をつくり出すと述べています。そして,その規律は,視線と処罰,それらを組み合わせた試験によって成り立つと言います。この規律・訓練は,学校にも置き換えられることができ,学校の訓育にその技術を提供していると言います。この考え方に立つと,学校自体が規律・訓練によって「従順な身体」をつくりだす装置となっていると言えます。それ以上に「主体的」や「関心・意欲・態度」まで規律・訓練の中に含み込むということは,「従順な身体」がより強化と考えられるのです。

 「新学力観」をめぐる言説をこのフーコーの枠組みで批判的に分析することは,「新学力観」が意識的,あるいは無意識的に含み込む「主体」概念を分析することにつながります。また,上述の主体的な学習の問題化や,それぞれが含み込む「主体」概念との比較から,対比的にあるいは反復的に「新学力観」の「主体」概念を分析することができます。

 以上のように,本研究では,「新学力観」における「主体」の問題について,その生成過程である社会的背景を明らかにし,それまでの学力論を踏まえて,学習の「主体」論の言説を分析しながら,「新学力観」をめぐる言説を分析していきます。そうして,主体的な学習の「主体」について考察していくことが目的です。

 まず,第一章では,新学力観の生成過程を,臨時教育審議会,全国生活指導研究会の学級集団つくり,学力論学力論争の変遷について明らかにします。続く第二章では,学習「主体」論の言説について,大西忠治の学習集団論,吉本均の学習集団と学習主体論,村上芳夫の主体的学習者に焦点化して分析していきます。

 次に第三章では,「新学力観」の言説を分析していく。ここでは,「新学力観」をつくりだした側や,それに対する教育界の反応などの言説を見ていく。そして,「新学力観」の捉え直しと,その可能性としての新たな展望についてまとめていく。


ランキングに挑戦中です。
人気ブログランキングへ
こちらをクリックして 投票をお願いします。