今年度の校内研修について、一つの方向性が出されました。
それが、子どもの「問い」から授業を作っていこうというものです。
教科は、算数です。

昨日のブログで書いた通り、「問い」ということにどれだけ、先行実践や文献を当たっているのかわかりません。そこで、アマゾンで「問い」や「質問」というワードで検索を行い、文献に当たって見ました。

いくつか文献を購入したのですが、まず、次の文献から購読することにしました。
というのも、実践を見据えた文献と考えたからです。




教材に対して、子どもの問いを見つけさせ、その中から価値ある問いを追求させ、一斉授業ではその追求したことを交流するという形の実践でした。

しかし、この実践って、30年以上も前の、課題解決学習に似ているなと思いました。
例えば、国語の文学的教材を指導するのに、初発の感想から課題を見つけ出し、その課題の中からみんなで追求するという過程と似ているのです。

おそらく、筆者は、その先行実践について知らないか調べていないかではないかと思います。
そして、この時の問題を解決できているとは思えないのです。

当時の問題は、本当に価値ある課題を子どもたちが作れるかというものでした。
これと、同様に、学習のねらいに到達する、価値ある「問い」をつくれるのかという問題が、相変わらず生じます。

それを解決するために、本書では、グループ討議で、価値ある三つの「問い」を選ぶようにしています。確かに、これも一つの解決法ではあると思いますが、それでも昔の課題解決学習の問題をクリアしているとは思えません。

なぜなら、問いをつくる。問いを三つに絞る。その問いを追求する。ここまでは新しいのですが、この後、一斉学習でどのように学びを確定したり、促進したり、深めたりするのかがわからないのです。

単に、上の「問いの作成」「問いの精選」「問いの追求」だけでは、一斉学習での学びを想像しづらいのです。

さらにいうと、「問い」は、その対象によって、学びが大きく異なってきます。
対象というのは、一つが「教材」であり、もう一つが「自己」です。

前者は、教材に対して、なぜ、どうしてという問題意識です。しかし、この問題は、簡単に解決するか、到底解決できないかのどちらかになりがちです。そして、後者は、なぜこのお話を面白いと思ったのかや、なぜこの事象を不思議と思ったのかというような問題意識です。

残念ながら、この問いの対象については、理路整然とした説明がありませんでした。

おそらく、この文献を読まれた先生方は、「なるほど、良さそうだけど、どうやればいいの?」や「問は大切かもしれないけれど、それをどのように一斉授業にするの?」というような疑問が残りそうだと思いました。

 
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