「授業に発問は、それほど重要ではない。発問がなくても授業は成立する」と言ったら、読者の方々はどのように思われるだろうか。きっと、「そんな馬鹿な。発問のない授業なんて考えられない」のような反応が返ってくるだろう。

確かに、発問は、教育技術の基礎であり、子どもの学びに不可欠のように捉えられていることが多い。授業を展開するのに発問の流れを考えたり、主発問や補助発問で授業を構想したりする。  

しかし、本当にそれほど重要なのだろうか。もちろん、発問を全くしないというわけではなく、必要な時もある。ただ、その発問に応えている子どもたちの姿は、自主的、対話的とは言えない。

なぜなら、子どもたちは、教師に問われないと考えないからである。また、問いかけの主が教師であるため、子どもたちは教師に向かって応答する。教師と子どもの対話になりがちなのである。  

仮に、授業で子どもたちが活発に思考し、発言するような発問ができたとしよう。その発問が、他の授業や教科に活用できるだろうか。

それもなかなか困難だろう。授業や教科によって学習する内容が異なり、子どもたちの学びを促すための発問は、その都度異なるからである。

それよりは、子どもたちの反応が予想と違っていたり期待外れだったりすることの方が気になる。参観日や研究授業などで、用意していた発問に子どもたちが反応せず、反応しないからさらに発問し、どんどん教室の空気が重くなる、そんな経験をした教師も少なくないはずである。

そんな時、真面目な教師は、自らを反省する。今日の発問は何がよくなかったのだろうかと。

もちろん、授業に対する自省的な態度は、とても重要である。しかし、自ら振り返る点は、発問だけではないのである。なぜなら、授業の中では、子どもたちの意欲や態度、学習内容への興味や難易度、学習集団や教師との関係、学習環境との関係など、様々な要素が絡み合って成立するものだからである。

特に、様々な関係性やかかわりに着目することで、新たな授業観を確立することができる。 以上のような発問と、それに応答するこどもたちで展開される授業を「発問―応答」型と呼んでいる。そして、この「発問―応答」型ばかりの授業を展開していては、教師と子どもの対話となるという問題だけでなく、様々な問題を生じさせるのである。

 
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