「教育実践を語る」服部英雄のブログ

授業のこと,学級経営のこと,家庭教育のことなど,教育全般にかかわることについて,これまでの経験や研究をもとに語っていきたいと思います。

学習論

学期末の取り組み

二学期の学期末です。
この時期の学習は,二学期に学習したことをまとめたり復習したりすることが多いと思います。
また,そのようにした方がいいと考えています。

二学期に学習した知識や技能の復習をするのです。
また,それらを獲得するために活用した思考法を整理するのです。

しかし,一方では,教材の進度が思い通りにいかず,正当な進度に揃えるために無理な学習をすることもあります。これらは,子どもたちにとって,あまり良い方法とは言えません。

なぜなら,ある意味,詰め込み型の学習になりがちだからです。

それらの学習は,子どもの学びを重視するより,学習したという結果や事実を重視することになってしまいます。子どもの学びは,その子がどのように学んだかということも範疇に含んでいるので,単に結果や事実だけを追い求める学習ではそれらの学びが成立しなくなってしまうのです。

そこまで無理やり学習するのであれば,それに変わる方法を考えた方がいいと思います。
例えば,遅れていてもそれを三学期に回して,今の学習を学びあるものにする方法があります。
また,いずれかの単元で,自主的,個別的学習を取り入れて,子どもたちがどんどん進めていくという方法もあります。

大切なことは,学期末の学習や授業でも,子どもたち一人一人が何をどのように学び,それが他の学びとどのようにつながっていくのかということを見据えて,日々授業することなのです。

単純な教科書教材主義に陥ってはいけません。
教科書全てを学習しなくても,重要な学びは学習していない教材にも転移していくのです。

その転移までも見据えて,日々指導していかなければならないと考えています。

とはいえ,教科書を進めていかないとテストができない,テストができないと評価ができないのような悪循環も考えられます。

この悪循環を断ち切るには,勇気が必要です。子どもたちにこれだけの学びがあるという自信も必要です。そのような勇気や自信を得るために,教材分析や授業研究をするのです。

学期末は,その学期の復習やまとめ,冬休みの学習指導,などに時間を割り当てたいものです。その上で,他のことをどのように指導するかということを考えたいものです。

一方では,成績処理という事務もあります。これらをうまく関連付けながら,効率的に処理しつつも子どもの学びを重視するという,複雑かつ大変な指導をしなければならないのが,学期末なのです。

 


ランキングに挑戦しています 

「学ぶこと」と「教えること」の共鳴2−3

これまでの続きです。
この記事で,ひとまとまりとなります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

4 「教えること」のとらえ直し

 これまで述べてきたことから,新たにとらえ直される「教えること」は,いくつか浮き上がってきていると言える。ここでは,実際の単元の流や授業の展開を見据えて,より具体的にまとめていくこととする。

(1)リアルな単元主題の設定
 これは,社会や文化とのかかわりのところで述べたことを,単元の主題設定にどのように生かすかということである。社会や文化とかかわるために,単元の主題を,実際の社会や文化に求める。例えば,国語科で,実際に言語的な文化として「語り」とかかわらせるために,単元の主題を「戦争文学を語ろう」としたり,社会科で今日的な社会状況である携帯電話とかかわらせるために,単元の主題を「どうするケータイ」にしたりするのである。また,音楽や図工やなど,学習そのものが文化的である教科では,自ずと単元の主題は実際の社会や文化であるし,そうでない算数や理科,生活科でも同様のことが言える。

(2)かかわりへの介入
 教師や子ども,教材や環境の,それぞれのかかわりに積極的に介入していく。ともすると,教師は,子どもや教材や環境を対象に,そこへ介入しようとする。つまり,子どもがつまずいているのは,その子の問題や,教材の問題としてとらえがちなのである。もちろん,そのような見方,かかわり方も重要であるが,視座を変えて,かかわりそのものを変えるのである。これは,これまでも,つまずきに応じてグループの構成を変えるなどの方法で具体化された。これを発展させ,かかわりを変えるという観点で,グループなどを事前にいくつか用意してジグソー的に学習を進めるのである。

 また,子ども自身のかかわり方に介入することも大切である。これは,教材や環境とのかかわり方であれば,その子の関心・意欲・態度に介入することであり,他の子どもや教師とのかかわり方であれば,人間関係をつくる力に介入することになる。特に,後者は,最近話題になっているいじめ問題とも密接に関係してくると考えている。

 さらには,かかわりの中で目に見えないもの,例えば,授業の雰囲気やムード,授業展開のリズム,あるいは,物理的・心理的な間合いなどに,介入することも新たな「教えること」と位置づけたい。それらを言語化することで意識化し,意図的に変容させていくことも,教師にとって重要なことなのである。

(3)コーディネーターという立場
 これまで述べたように,教室におけるかかわりを意識したり,それに介入したりするということは,実際の授業を展開していくときに,教師は「指導者」という立場にいない。

 この議論は,『これまでも教師は「指導者」ではなく「支援者」である』や,『いや,「支援者」でもなく「促進者」である』というように展開されてきた。さらに,かかわりということを重視すると,教師は,支援者や促進者ではなく,組織するもの「コーディネーター」となる。

 実際の授業で言うと,子どもがかかわりの中で持っている思いやこだわりを,組み立てていく。例えば,生活科で,自然事象と子どもたちがかかわって,自分なりの気づきをもつとき,それらを組織しながら,知的な気づきに高めていくのである。

(4)表現活動の重視
 表現するということは,かかわりを創り出すことそのものである。したがって,単元を構想するときにも,授業を展開するときにも,表現活動を組み込むことが重要となってくる。例えば,算数科では「算数的表現」を重視し,操作的表現,図的表現,言語的表現,記号的表現などを単元の中でつなげようとしている。また,理科でも「ものづくり」を単元の核に据えたり,描画やコンセプトマップなどで表現を重視したりしている。

 さらに,これらの表現が,社会や文化と密接にかかわるとき,それらは社会的・文化的実践となる。つまり,単に教室の中で収束するのではなくなる。例えば,社会科の「ケーブルテレビから情報化社会を考える」で,実際にテレネット社に企画書を提案したり,国語科の「ブックトークをしよう」で,幼稚園の子どもにブックトークして図書館の文化に触れたりする。

(5)レトリカルな指導言
 教師の言語的なかかわりとして,多様な指導言について提案する。これは,教師が自分自身の中に,多様な声をもつということで,教師の多声性と呼んでもよい。つまり,かかわりの中の様々な立場に立って,発話することを意味している。例えば,授業を行いながら,教師としての立場だけでなく,一人一人の子どもの立場,教材の立場などに立って考えるのである。こうすることで,教師の指導言は多様となり,かかわりをより良いものに変容させていくことが可能となる。

 また,この多様な指導言のなかでも,レトリカルな指導言が有効であると考えている。つまり,細かく具体的なことを言うのではなく,比喩的に言うのである。これは,徒弟制の中でよく用いられる。宮大工の棟梁である西岡常一が宮大工の仕事を学んだのは,祖父のレトリカルな口伝であった3)。この知見を,「教えること」として,教師は指導言のレパートリーに入れていくことで,より多様な指導言が可能になるのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ランキングに挑戦中です。
人気ブログランキングへ
こちらをクリックして 投票をお願いします。

「学ぶこと」と「教えること」の共鳴2−2

昨日の続きです。
「学ぶこと」と「教えること」が共鳴し合う,新しい教育論,教育モデルの提案です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 3 かかわりを創出する

 以上のように見てくると,これまで以上に社会や文化とのかかわりを意識しながら,多面的なものの見方や考え方を生み出し,それをまた社会や文化に実践することが重要になってくる。これを実際の授業で展開するときの教師の留意点として,(1)社会や文化とのかかわりを見出す,(2)教室におけるかかわりを意識する,(3)柔軟な対話を生成する,(4)新たな学びの共同的に創造する,を提案する。

(1)社会や文化とのかかわりを見出す
 教育が社会的,文化的な側面をもつものであることを考えると,これまで以上に社会や文化とのかかわりを見出していくことが重要であると言える。仮に,教科書通りにカリキュラムを展開するとしても,それを用いて社会や文化と接することは可能なのである。例えば,社会科で変化する社会的事象の歴史的・今日的状況と接するようにしたり,理科で科学的な文化や社会的状況と接したりするのである。

 このときのかかわりの意義は,上述した多声性である。また,かかわり方は,問題解決,模倣,追体験,実践などが考えられる。つまり,実際の社会や文化の状況に対して,問題を見出して追究したり,まねたり実際の通りに体験したり,学びながり実際の行動に移したりするのである。また,このかかわりは,学習をよりリアルなものにするという意味ももつ。つまり,このリアルさが,子どもたちの学習意欲を向上させ,学ぶことの質を高めるのである。

(2)教室におけるかかわりを意識する
 教室には,教師,子ども,教材,環境などが,様々にかかわっていることを意識しなければならない。ここでは,昨年度提案した「即興の徒弟制」について,かかわりという視点から考察する。

 「即興の徒弟制」とは,瞬時に現れる師匠と弟子という関係を意味している。つまり,あるときには,教師が師匠で子どもが弟子となったり,それが逆になったり,子ども同士でも師匠と弟子という関係になったりするのである。また,教材や環境がそのまま師となり,教師も子どもも弟子となることもある。実際,授業というかかわりの中で,このように流動的で柔軟な関係が生じているのに出会うことがある。このような関係は,子どもの多様な表現や多面的なものの見方に重要である。なぜなら,様々な立場に立つことが可能となり,そこから多様な表現や多面的なものの見方が生まれてくるからである。

 また,このとき,教師はかかわりを意識するだけでなく,子どもの学びの様子から,うまくいかない責任をかかわりそのものにあるととらえたり,かかわりそのものを変えたり,しなければならない。その際に重要になるのは,それぞれのかかわりで,どのような言語が用いられているかということである。停滞しているとき,つまり関係がうまくいっていないときには,それが言語として現れているはずだからである。それは,教師,子ども,教材,環境,全てがかかわりの中で発する言語である。

(3)柔軟な対話を生成する
 (2)で述べたように,かかわりの中の言語に注意したり,かかわりそのものを自省的にとらえたりすることが重要なのであるが,ここでは,教師と子ども,子どもと子どもという関係において留意することをまとめる。

 まず,子どもを多面的なものの見方ができる,あるいは,できつつあるものとして見ることである。これは,学習における関係がうまくいかないときに,子どもの中に多面性を意識することを意味する。そうすることで,決めつけやラベリングを防ぐことができる。そして,子どもの中に多面的なものの見方や考え方を保障しつつ,それを育んでいくことができるのである。

 次に,教師と子ども,子どもと子どもの学習行為を調和させていくことである。これは,関係の中で用いられる言葉を同じような言葉に言い換えていくことである。具体的には,授業における共感的な言葉がけで,問うことではない。実際,教師と子どもの関係では,子どもに対して「これは○○ということだね」と言い換える方が,子どもは安心して多くを語る。この調和では,さらに身体の調和やリズムの調和も考えられる。このようなかかわりは,授業に,つまり教室に柔軟で多様な対話を生成することになる。

(4)新たな学びを共同的に創造する
 これは,かかわるもの全てが,新たな学びを創造していくというスタンスに立つことを意味している。言い換えると,新たな社会や文化を創造していくという姿勢である。そのために学習しているということを常に意識することが重要なのである。そうすることで,子どもたちの学ぶ内容は,子どもたちの外側にあるのではなく,子どもの内側から気づき,理解し,構築されていくからである。

 このとき,学習内容との関係で,内容とのかかわりと方法とのかかわりがあると考えられる。いわゆる,内容知と方法知である。学校教育では,どちらかというと,この内容とのかかわりを重視する傾向が強い。そして,どのような内容が子どもに身についたかを重視するのである。しかし,方法とかかわることも重要で,どのような方法とかかわらせるかということが,新しい学びを子ども自ら創り出すことにかかわってくるのである。つまり,内容とともに身についた方法が,新たな学びを創り,更新していくのである。

 ただ,ここで述べていることは,内容と方法を切り離してかかわることを意味しない。もし切り離したら,単なるスキル練習や技能の訓練になってしまうからだ。また,もともと内容と方法は,切り離せないものである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まだ,少し続きます。
 

ランキングに挑戦中です。
人気ブログランキングへ
こちらをクリックして 投票をお願いします。

「学ぶこと」と「教えること」の共鳴2−1

昨年の12月に書いたブログの続きです。
前回のブログをご覧になりたい方は,こちらをどうぞ。

学ぶことと教えることの共鳴


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 1 「教えること」のとらえ直し

 『「学ぶこと」と「教えること」の共鳴(レゾナンス)』をテーマに設定し,研究を行っている。それは,これまでのカリキュラム研究から,カリキュラムが創出される最小単位が授業であること,そこに様々な相互作用とともに「学ぶこと」と「教えること」が共存していること,などが導出されたことに拠る。そして,この「学ぶこと」と「教えること」が響き合って共鳴するとき,子どもたちに「確かなる知」が創出されると考えたのである。

 この「学ぶこと」と「教えること」を研究することは,これまで「学び(学ぶこと)」を偏重しがちであった教師の意識を,「教えること」に向けることとなった。折から中央教育審議会の答申やマスコミ等で騒がれていた「教師力」も背景に,「学ぶこと」と「教えること」のバランスを回復しようとした。そうして,「学ぶこと」と「教えること」が共鳴し合う状況を見出そうとしたのである。

 具体的には,各教科で共鳴し合う状況を設定した。例えば,国語科では「言葉でイメージを映しだす」状況,算数科では「共に算数を生成する」状況などである。そして,それらが生まれる要件や実践上の留意点を明らかにしようとした。さらに,「個の学びとその自己認識」,「相互作用の重視」「多様な評価活動」「学んだことの意味づけ・価値づけ」などが,どの教科でも重要であると提案した1)。

 このように,状況を対象とするとき,そこには関係性が不可欠である。つまり,状況には,教師,子ども,環境それぞれに,様々な関係が存在しているのである。この関係に着目することは,そこから生じる意味や意義を見出していくことである。そうすることで,関係としてのかかわりの意義や意味が明らかとなり,状況はより良いものとなっていくと考えている。さらに,この過程を通して,子どもたちの「学ぶこと」はもちろん,教師の「教えること」もとらえ直していくのである。


2 かかわりの変容

 ケネス・J・ガーゲン(Kenneth J. Gergen 1999)は,教育システムに広く浸透している二つの前提をあげ,それらを批判している2)。その前提とは,一つが「教育の目的は無知な生徒を知的に変える—生徒の誤った考えや信念などを,確固とした事実や論理的な推論で置き換える—こと」であり,もう一つが「教育によって,一人一人の生徒の心をよりよいものにしていかなければならないというもの」である。そして,これらに最も強い批判を行っているフレイレ(Paulo Freire)の「栄養士モデル」を紹介している。

 「栄養士モデル」では,知が「よい食べ物」であり,教師は栄養を与えるもの,子どもは栄養を与えられものとして定義される。そして,そのモデルにおける教師は,子どもに教育的な「栄養」を与える道具として位置づけられる。本来,教育テーマについて反省したり,それぞれの状況に合った教育を行ったりする力があるにもかかわらず,それらが奪われていると言うのである。一方,子どもたちは,ただひたすら情報を吸収することが期待されている受動的な存在となってしまう。

 このモデルが,日本の状況にそのまま当てはまるとは言わない。しかし,教科書だけで授業を行ったり,知識や技能の獲得を教育の基礎・基本ととらえたりしていることを考えると,当てはまらないとも言えない。そして,このようなかかわりにおいて「教えること」は,子どもたちに単に必要な栄養を与えることであり,それらをいかに効果的に確実に身につけさせるかということが重要となる。

 この効果的に確実に身につけさせるという教育モデルは,「工業生産モデル」を想起させる。この「工業生産モデル」では,単元やカリキュラムのモデルを「目標・達成・評価」と設定する。これは,大工場の生産ラインをアナロジーとして成立したモデルである。したがって,教師は工場の技術者,子どもは生産物となり,そこでのかかわりは,いかに目標通りに生産するか,いかに生産率を向上させるかということになる。これらは,近代的な考え方,すなわちモダン的な考え方で,現代のポストモダン的な考え方とはズレてきている。

 以上のような「栄養士モデル」や「産業生産モデル」を批判するとき,どのような新しいモデルが考えられるのだろうか。明確なモデルとして示すことは難しいが,それをガーゲン(1999)の社会的構築主義(social constructionism)の考え方を援用して,提案したい。

 まず,子どもたちが身につける知識や理解は,社会や文化という共同体に参加していくというかかわりにおいて生まれてくると考える。つまり,知識や理解は,栄養や生産物ではなく,子どもたちが社会や文化とのかかわりにおいて生まれてくるのである。実際,子どもたちは,知識をただ暗記したり,ドリルなどで技能を高めたりすることだけを目的に学習させると,受動的な学習となり,子どもの意欲も学習成果も低下する。したがって,新たなモデルでは,社会や文化とのかかわりを,これまで以上に創り出していかなければならないのである。

 次に,子どもたちが学習を通して思考したり判断したりすることは,多様な表現を通して多面的なもののとらえ方ができるようになることを意味する。つまり,ものの見方や考え方・感じ方を広げたり深めたりする。これは,子どもたちに一面的な物言いをさせず,多面的な立場から述べさせることを意味する。つまり,子どもたちに,多面的な声,すなわち多声性を産みだすのである。そして,社会や文化とかかわりながらの多声性をその意味や意義と考える。そうすると,学習における表現や技能は,この共同体で実際に行動すること,実践することとなり,また社会や文化と新たなかかわりを構築していくことになる。

 このようなモデルを模索しながら,各教科では表1のようなテーマを設定し,その具体を求めている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

続きます。

 

ランキングに挑戦中です。
人気ブログランキングへ
こちらをクリックして 投票をお願いします。

夏休みの学習

夏休みの学習というと,「夏休みの友」や「1学期の復習」「夏をきわめる」など,市販の教材を購入して,子どもたちにやらせるのをよく見ます。

これは,教師としては,やらせやすいものです。
なぜなら,細かなやり方を指導することがないからです。
とにかくやらせればいい,ということになりがちなのです。 

一方,子どもたちは,このような教材を使って,夏休みにどのように学習するのでしょうか。

大きく二つのパターンに分かれます。

まず,できるだけ早く終わらせて,後は自由にのびのびと過ごすというパターン。
もう一つは,後回しにして,夏休みの終わりに適当に済ますパターンです。

特に,後者のひどい場合は,誰かのやった答えを写させてもらうようなこともあるようです。

この学習パターン,どちらのやり方もよくないと考えています。
家庭における学習のとらえ方が間違っているからです。

家庭における学習とは,夏休みでもそうでなくても同じでなければならないと考えます。
つまり,与えられたものをするのではなく,何をどのようにするかを自分で決めて学習する,この考え方で取り組ませたいのです。

家庭での学習は,先生や保護者にむりやりやらされるものではだめなのです。 

そこで,私の場合,教師になって3年目ぐらいから,次のようなやり方で夏休みの学習に取り組ませてきました。

まず,何を学習するかは,学級指導で,子どもたちと一緒に決めます。
もちろん学校全体として出す課題もあります。
それとは別に,何をしたらいいかと問いかけ,子どもたちに考えさせるのです。

この問いの答えに,子どもたちはすぐに気づきます。
「1学期の学習の復習をすればいい」
「1学期の漢字,計算をもう一度する」
「漢字,計算以外にも,社会科も復習したい」
などの意見が出ます。

これらをまとめつつ,自分で何をするか決めさせます。
と,同時に全員共通してやることも決めます。
それは,漢字と計算です。

漢字ノート,計算ノート,それぞれ一冊ずつ用意します。
そして,どちらのノートでも,社会や理科,自由研究,日記,読書記録などにも使っていいことにします。

次に,どのようにです。
この場合,夏休み以外の家庭学習の計画と同様に考えさせます。

それは,1日の学習時間を決めさせるのです。
もちろん,最低時間は提示します。それは,「学年×20分」です。低学年の場合は,時間が短くなるので「1時間」を最低時間とします。

この学習時間は,子どもたち一人一人が自分で決定します。
そして,教師は,一人一人の子どもの学力や意欲を判断しながら,個別に指導するのです。

そして,毎日続けること,「継続は力なり」を指導します。
毎日,自分が決めた内容と時間をきちんと続けることが重要であると説明したり,話し合わせたりするのです。

このような学習の仕方は,それまで市販の教材で学習して来た子どもたちにとって,理解して実行するのがなかなか難しいこともあります。

ですから,夏休みに入る前にしっかりと時間をとる必要があります。
私の場合,このような教師と子どもの話し合いを少なくとも,夏休みの一週間前ぐらいには説明し,その練習を学校や家庭でできるようにします。

子どもたち一人一人に合わせた,きめ細かな事前の指導が重要だと考えています。

 
   ランキングに挑戦中です。
人気ブログランキングへ
こちらをクリックして 投票をお願いします。
プロフィール

weavingbe

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

楽天市場
タグ絞り込み検索
記事検索
  • ライブドアブログ